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【日航機墜落事故】搭乗を間一髪で免れた人々のその後の人生

 

1985年8月12日 (お盆入り前日)、観光客や帰省客で満席だったジャンボ機 (日航123便) は離陸から44分後に墜落しました。その結果、乗員乗客524名のうち生存したのはわずかに4名だけだったのです。この悲劇は、けっして風化させてはなりません。

あれから30年以上が経った今でも、墜落現場となった御巣鷹の尾根」の麓を流れる群馬県上野村神流川では、遺族たちが慰霊の灯籠流しを行っています。「空の安全を祈ります」「安らかに」...などと書き込まれた大小数百個の灯籠が流され、犠牲者の冥福が祈られているのです。

 

 

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 その一方で...

急用でやむなく123便をキャンセルした結果、難を逃れた人たちもいます。

 

 

 

 

シャープ元副社長、佐々木正さんの場合

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 2017年、100歳を迎えた佐々木さんは当時副社長兼東京支社長の職にありました。12日は大阪 (自宅) に帰るため当便を予約していたのですが、突然フィリップ社の東京支社長から「明日、会えないか」と連絡が入り、飛行機の予約を変更したのです。そして、日航機事故のことを知ったのはホテルニューオータニのレストランで会食しているときでした。

ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていました。佐々木さんの妻は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように伊丹空港まで迎えに来ていたのです。そこにもたらされたのが事故の一報でした。

実は佐々木さん、飛行機事故の難を逃れたのはこれが2度目のこと。1度目は10年ほど前、マレーシアで同じようなケースがあったのです。もしかしたら乗っていたかもしれない飛行機が墜落し、乗客は死亡。。。

「生かされた命ですから、人の役に立つ製品を作らなければと思ってこれまでやってきました!」「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています。」

 

 

 

人気アナウンサー、逸見政孝さんの場合

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フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんはあの日、妻と息子、娘の4人で実家のある大阪へ飛行機で帰省するつもりでした。そして、逸見さんが希望したのはなぜか123便だったのです (“イッツミー”の語呂合わせからだと考えられます)

しかしながら、その便を予約しようとすると「満席です」と告げられ、、、


結局、一家は新幹線で帰省し事なきを得たのです。そして、日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからのことでした。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていました。

「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょう。父はお盆休み中、ずっとやきもきしていました。テレビや新聞を頻繁に見たり、話しかけても上の空だったり。」(by 息子の太郎さん)

それから3年後、逸見さんはフリーアナウンサーとなりお茶の間の人気者になります。しかし1993年1月、がん告知を受けた逸見さんは1年足らずでこの世を去ることとなるのです。 



 

被災地 (東日本大震災) での「霊体験」

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 Aさんのケース

「誰にも話せませんでした。死んだ家族と再会したなんて...」

そう話すのは東日本大震災で最愛の家族を失ったAさん (30代男性)。絶望に満ち溢れた日々を過ごす遺族が多い中、そんな日常の中で突然起きたのは、「霊体験」としか表現できない "死者との再会" でした。その不思議な体験で、Aさんの心は絶望から救われることになったのです。

 

宮城県で被災したあるAさんは、妻と2歳にも満たない次女を津波で一度に失ってしまいました。震災から10日あまりで遺体がようやく見つかり、やっとの思いで弔いの火葬ができた夜のことです。

「夜中に目が醒めると目の前に二人がいたんです。マスクをしてしゃがんだ妻に寄り添うように、娘が僕に手を振っていました。」Aさんは目を醒ましますが、瞼を閉じると妻娘の姿が見え続けます。泣きながら「おいで、おいで」と声をかけたAさん。その後も、寝ている時に度々妻が現れ、『戻りたい』『今は何もしてあげられないよ』『どこにも行かないよ』『待っている』などと語りかけてきたといいます。この邂逅が、Aさんには生きていく心の支えになっているそうです。

 

 

Bさんのケース

宮城県に住むBさん (30代女性) は、父の死を知り無数の遺体が置かれている安置所に駆けつけます。そこで父の遺体に寄り添っていたとき、数多くの遺体の腹部からいくつもの「ピンポン玉のような大きさの青い玉」が浮かんでいました。Bさんは「一人の遺体に青い玉は一つ。たくさんあるんだから、お父さん、寂しくないね。」と語りかけたといいます。

 

 

Cさんのケース

岩手県で働くCさん (40代女性) は、震災から数ヶ月後にようやく兄の遺体と対面することができました。その翌日のこと。Cさんが市役所で兄の死亡届を書いていた時に、携帯電話に1通のメールが届いたのです。そこには一言だけ「ありがとう」と書かれていました。

発信元は、信じられないことに津波で亡くなった兄の携帯電話からでした。しかしそれは壊れて使えない状態です。さらに、生前の兄からのメールは全て消えてしまったといいます。Cさんは「兄なりのお別れの挨拶だったのでしょう」と受け止めています。

 

 

 

 

命の尊さを思う...

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 母は10年かけて少しずつ死んでいきました。まずは体中の機能が失われていき、やがて口を動かす機能が失われ、食事ができなくなり、、、

母は、それから2度と大好きだった餃子を食べることができなくなったのです。ある日、中華料理屋さんで母のいない食卓を囲み、母が2度と食べることのなかったあの餃子の味を忘れることができないといいます。

 

話は変わり、腐敗する遺体についてです。事故や事件に書き込まれた遺体の中には損傷の激しいものがあります。解剖直後の遺体、蛆の湧いた遺体、風呂釜の中で茹でられてしまった遺体など...

子供の遺体を抱いたまま離さない親もいれば、従来の葬儀の枠にとらわれない別れを望む遺族もいます。

 
 
 
 

 

日航機墜落事故】を免れた人々のその後の人生

 1985年8月12日の早朝、Dさん (40代男性) は御巣鷹山からわずか数十kmのところにいました。まさか12時間後にジャンボ機が墜落するなど予想だにしない穏やかな朝、Dさんは釣りをしていたのです。

その帰り、羽田空港に着いたのは17時半頃。18時発のJAL123便はあいにく満席でしたが、あわよくばと空席待ちの列に並ぶことにしたのです。

 

そして、しばらくして上の方を見上げると、運行予定を示す案内板の〈18時発JAL123便〉のところには、“案内中”のランプが点滅していたのです。

 

 「空席待ちのご案内は以上です」

 

Dさんは、キャンセルの順番待ちギリギリで乗れなかった他の男性と顔を見合わせ残念やなあ」と言い合って苦笑いしたことを今でも覚えています。Dさんは、空席を待っていた客のうち3人が搭乗したのを確認しています。もしあと30分でも早く空港に着いていれば、自分が乗客になっていたかもしれません。

その後の便で大阪に向かい、無事自宅に着いたDさんでしたが、ちょうどその頃近所では大騒動となっていました。そこにDさんが帰還。近所の人たちが拍手喝采で迎えてくれるんです。“ワー、帰ってきはった”と。

 

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何事やと思ったDさんは、飛行機が落ちたことを知り、「人生ってほんまに紙一重やなー」と実感します。

そして、日航機墜落事故から1年後のこと。友人が運転する車の助手席で寝ていたDさんは重い脳挫傷を負い、意識不明の重体となりました。一時は、「植物状態になることも覚悟してほしい」と言われるほどでした。

 

ただ幸いにも、担ぎ込まれた山あいの病院には普段脳外科の専門医は常駐していないのですが、その日は偶然専門医が当直していたのです。そのおかげで奇跡的な回復を果たすことができたのです。

Dさんの意識が戻らないとき、Dさんの妻は知人の紹介で奈良の真言密教の寺にお参りに行きました。そこで住職に、“ご主人の足を誰かが引っ張っているから大丈夫ですよ”と言われたとか。

 

これら2つの体験から、Dさんは助けられた命を大切に、これからの人生を真剣に歩んでいきたいと考えています。

このような事件・事故などで命を落とされた多くの犠牲者の代わりに自分は生かされているんだと考えるようになったんです。その人たちの分まで懸命に生きなければ……。

 

最後に。123便の機長だった方のお嬢さんは「519人を殺しておいて、よくのうのうと生きていられるなっ」と心ない言葉を浴びせられたこともあるそうです。この記事を読んでくださった方々には、どうかそんな (心ない) 人間にだけはなっていただきたくない、と心から願うばかりです。